【病気】ウサギの膀胱アトニー

アトニーの定義

ウサギにおける膀胱アトニー(Bladder Atony)、あるいは排尿筋アトニー(Detrusor Atony)は、膀胱壁を構成する平滑筋である排尿筋が収縮能力を喪失し、膀胱が過度に拡張したまま尿を排出できなくなる病態を指します。この状態は、単なる排尿の遅延にとどまらず、放置すれば不可逆的な筋肉の損傷、上部尿路への尿逆流に伴う腎不全、そして重度の会陰部皮膚炎(尿焼け)を引き起こし、最終的には個体の死を招く深刻な症候群です。獣医学において排尿は、尿の貯留と排出という二つの相反するフェーズの協調によって成り立っています。正常な貯留フェーズでは、交感神経系が優位となり、排尿筋を弛緩させつつ内尿道括約筋を収縮させます。一方、排出フェーズでは副交感神経系が活性化し、排尿筋を収縮させると同時に括約筋を弛緩させることで、スムーズな尿の放出が実現されます 。膀胱アトニーは、この排出フェーズが神経学的、あるいは物理的な要因によって完全に破綻した状態であり、臨床的には溢流性尿失禁(Overflow Incontinence)すなわち満杯になった膀胱から内圧によって尿が滴り落ちる現象を伴います。ウサギは生理学的に高カルシウム尿症を呈しやすいという特異な背景を持っており、これが膀胱内に砂状の沈殿物(スラッジ)を形成させやすく、物理的な刺激や重量によって排尿筋に持続的な負荷をかけることが、本疾患の発生頻度を高める一因となっています 。

原因

閉塞後アトニー

尿道に結石が嵌頓した場合、膀胱は急激に拡張します。特にオスウサギは尿道が細長いため、小さな結石や濃縮されたスラッジでも完全閉塞を起こしやすい傾向があります。結石以外にも、スラッジあるいは膀胱や尿道の強い炎症で尿流を妨げると、排尿筋は排出を試みて強く収縮しますが、出口が開かないために内圧が上昇し、筋線維が限界を超えて引き伸ばされます。またウサギの尿中には常に大量の炭酸カルシウム結晶が存在しています。運動不足、肥満、脱水、あるいは脊椎の痛みによって排尿姿勢を維持できない状態が続くと、重い結晶が膀胱の底に沈殿し、泥状のスラッジを形成します 。このスラッジの重量は膀胱壁を物理的に下方向へ引き伸ばし、持続的な伸展刺激を与えることで、排尿筋の疲弊とアトニーを誘発する強力な要因となります。

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神経系が正常であっても、長期間の膀胱の過拡張は排尿筋そのものに物理的なダメージを与えます。膀胱がその容量を超えて引き伸ばされると、平滑筋細胞同士を繋いで電気信号を伝達している密着結合が引き裂かれ、神経から放出されたアセチルコリンに対して筋肉の一部が反応したとしても、その収縮が膀胱全体へ波及しなくなり、同期的な収縮が不可能になります。さらに、膀胱壁の過度の伸展は壁内を走行する微細血管を圧迫し、虚血を引き起こします。虚血状態が継続すると、筋細胞の変性や線維化が進行し、たとえ尿路閉塞などの原因が取り除かれた後であっても、膀胱が再び収縮能力を取り戻すことができない不可逆的なアトニーが完成します 。これが数時間から数日続くだけで、閉塞を解除した後もアトニーが残存する閉塞後アトニーとなります。

脊椎疾患

ウサギは強力な後肢の筋力に対し、脊椎(特に第7腰椎付近)が解剖学的に脆弱であり、不適切な保定や落下により脊椎骨折・脱臼を起こしやすい動物です。膀胱の収縮は、仙髄(S1–S3付近)に存在する副交感神経節前ニューロンから発する骨盤神経によって制御されています。この神経が末梢部でアセチルコリンを放出し、排尿筋細胞のムスカリン受容体(主にM3受容体)に結合することで、筋肉の収縮が誘発されます。膀胱アトニーが発生する神経学的機序は、大きく下位運動ニューロン(LMN)障害と上位運動ニューロン(UMN)障害に分けられます。仙髄より頭側の脊髄(胸腰椎部など)に損傷がある場合(上位運動ニューロン障害)、排尿反射を制御する脳幹(橋排尿中枢)からの抑制が失われます。初期には脊髄ショックにより弛緩が見られますが、後に括約筋の過緊張や排尿筋・尿道括約筋不協調が生じ、排尿筋が収縮しようとしても出口が閉ざされているため、結果として膀胱が過拡張し、二次的にアトニーへと進行します。仙髄節あるいは骨盤神経そのものが損傷を受けた場合(下位運動ニューロン障害)、膀胱への運動指令が完全に消失します。この状態では膀胱は弛緩し、非常に拡張しやすい状態となります。

症状

膀胱アトニーの最も典型的な症状は、自発的な排尿が見られないにもかかわらず、常に会陰部が濡れているという矛盾した状態です。膀胱がその弾性限界を超えて満杯になると、括約筋の抵抗をわずかに上回る内圧が生じ、尿が受動的に「漏れ出し」ます。飼い主はこれを「おしっこが近くなった」あるいは「トイレを忘れた」と誤解することがありますが、実際には膀胱が巨大化しているサインです(溢流性尿失禁) 。抱き上げた際に尿が漏れる、あるいは歩行中にポタポタと尿が垂れる現象が見られます(滴下尿)。尿は通常のスラッジ尿よりもさらに濃縮され、粘性が高いことがあります。持続的な尿の漏出は、皮膚に致命的なダメージを与えます。ウサギの尿はアルカリ性が強いため、皮膚を化学的に腐食させ、会陰部、腹部、後肢の皮膚が赤く腫れ(紅斑)、脱毛し、さらには潰瘍化して細菌感染を引き起こします 。これはウサギにとって極めて痛みを伴う状態であり、自分でその部位を舐めたり噛んだりすることで、さらに悪化します 。

検査・診断

診断の第一歩は慎重な腹部触診です。膀胱アトニーの個体では、骨盤腔から腹腔のかなり前方まで達する巨大な膀胱が触知されます。神経学的検査として肛門括約筋のトーン、会陰反射、および尾のトーンを確認し、下位運動ニューロン障害の有無を評価します。炭酸カルシウムを主成分とするスラッジや結石は、X線上で鮮明な放射線不透過性(白影)として観察されます 。また、脊椎の変性、骨折、脱臼などの神経学的背景を探る上でも不可欠です。膀胱内のスラッジの流動性や、膀胱壁の厚み、層構造の維持状態を超音波検査で評価します。

治療

治療の優先順位は、まず膀胱を空にすること、次に原因の除去、そして排尿筋機能の回復促進となります。

排尿補助と膀胱管理

伸び切った排尿筋細胞を再接着させ、機能を回復させるためには、膀胱を常に収縮した状態(空の状態)に保つことが不可欠です。重症例では、留置カテーテルを数日間設置し、膀胱内圧をゼロに保ちます。これにより、筋肉のタイトジャンクションの再形成が促されます。スラッジが固着している場合、生理食塩水を用いて膀胱内を繰り返し洗浄します。この際、出口である尿道もしっかりと洗浄し、スラッジの詰まりを解消します。この処置には通常、鎮静または全身麻酔が必要です 。

薬物療法

薬物療法は、排尿筋の収縮力を補う薬剤と、出口の抵抗を下げる薬剤を組み合わせるカクテル療法が効果的です。

排尿筋収縮薬

ベタネコールは、副交感神経を模倣してムスカリン受容体を刺激し、排尿筋の収縮を促します。アセチルコリンエステラーゼによって分解されにくいため、天然のアセチルコリンよりも持続的な効果を発揮します。しかし、物理的な閉塞がある場合には絶対に使用してはいけません。閉じられた尿道に対して膀胱を収縮させると、膀胱破裂や尿の逆流による致命的な腎不全を招きます。

尿道括約筋弛緩薬

フェノキシベンザミンは、内尿道括約筋に存在するα1受容体を遮断し、尿道の平滑筋を弛緩させます。排出抵抗を下げることで、微弱な排尿筋の収縮でも尿が出るようにサポートします。ベタネコールの投与開始の数日前に、あらかじめフェノキシベンザミンで出口を緩めておく手法が推奨されることもあります。副作用として全身の血管拡張による低血圧。立ちくらみや元気がなくなるなどの兆候に注意が必要です 。

看護と長期管理

尿失禁が続く場合、徹底したスキンケアがウサギの幸福度を左右します。バリカンで患部の被毛を刈り、こまめにぬるま湯で洗浄します。皮膚保護剤(ワセリンや亜鉛華軟膏)を用いて尿が皮膚に直接触れるのを防ぎます。常に清潔で乾燥した床敷き(ペットシーツなど)を使用し、尿が溜まらないようにします。また、トイレに行きやすいよう、段差のない環境を整えます。尿量を増やし、結晶を常に「浮遊」した状態に保つことがスラッジ固着の防止に繋がります。新鮮な水を複数の場所で提供し、時には水に果汁を少量加えて飲水を促します。野菜も水分源として重要です。カルシウムの管理: 高カルシウムのアルファルファヘイをチモシーヘイに切り替え、ペレットの量も制限します。ただし、極端なカルシウム除去は歯の健康を損なうため、血液検査の結果に基づいた調整が必要です。

この記事を書いた人

霍野 晋吉

霍野 晋吉

犬猫以外のペットドクター

1968年 茨城県生まれ、東京都在住、ふたご座、B型

犬猫以外のペットであるウサギやカメなどの専門獣医師。開業獣医師以外にも、獣医大学や動物看護士専門学校での非常勤講師、セミナーや講演、企業顧問、雑誌や書籍での執筆なども行っている。エキゾチックアニマルと呼ばれるペットの医学情報を発信し、これらの動物の福祉向上を願っている。

「ペットは犬や猫だけでなく、全ての動物がきちんとした診察を受けられるために、獣医学教育と動物病院の体制作りが必要である。人と動物が共生ができる幸せな社会を作りたい・・・」との信念で、日々奔走中。