はじめに
犬や猫の麻酔において、アトロピンは長らくルーチンな麻酔前投薬としての地位を確立しています。その主たる目的は、気道分泌物の抑制による誤嚥性肺炎の予防と、迷走神経反射(vagal reflex)に起因する徐脈の防止です。しかし、爬虫類では、場合によっては致死的な合併症(爬虫類の気道分泌物の粘稠度の増加による閉塞リスクや、心臓の解剖学的構造に由来する血行動態の複雑さ)を招くリスク因子となり得ることが明らかになってきました〔Gise et al.2025〕。
アトロピン代謝
爬虫類におけるアトロピンの代謝と排泄は、種差が激しく、かつ環境温度に依存します。温度が10℃低下すると代謝率は約半分になるとされ、至適温度帯(POTZ)以下で管理されている個体では、アトロピンの半減期が延長し、中毒域に達するリスクがある一方、受容体の感受性が低下して効果が現れにくいといはずです。 ウサギに見られるアトロピン分解酵素(アトロピナーゼ)と同様の活性を持つ酵素が、一部の草食性爬虫類(特にリクガメやイグアナの一部)に存在する可能性が示唆されている。これにより、アトロピンの効果が予測よりも極端に短い、あるいは無効であるケースが散見されます〔Kania et al.2018〕。
投与否定意見
アトロピン使用における最大の懸念事項は、分泌物の粘稠化と気道閉塞です。爬虫類の気道分泌物はムチン含有量が多く、もともと粘度が高い傾向にあります。アトロピン分泌物の「水分含有量を減少させますが、ムチンなどの固形成分の産生は抑制しません。分泌物の総量は減るかもしれないが、残った分泌物は極めて粘稠度が高く、接着性の強いプラグ(栓)となることが懸念されています。この粘稠化した分泌物は、容易に気管チューブを完全閉塞させ、術中の換気不全や窒息を招きます。下気道において粘液が繊毛運動で排出されず、肺胞嚢を閉塞させ、術後の肺炎やガス交換障害の原因となる。爬虫類は咳反射が弱く、自力での排出が困難です。
投与肯定意見
近年のキバラガメを対象とした研究では、アトロピンが心内シャントを制御し、吸入麻酔薬の取り込み効率を劇的に改善する可能性(副交感神経による肺動脈収縮を抑制することで右左シャントおよびイソフルランのMACを減少させ、それによって吸入麻酔の制御を促進する)が示唆されており、単なる徐脈治療薬の枠を超えた新たな薬理学的価値が見出されつつあります〔Kristensen et al.2023〕。爬虫類の循環器系は、副交感神経(迷走神経)による支配が哺乳類よりも優勢である場合が多い。特に水棲のカメや潜水能力を持つトカゲでは、潜水反射(Diving reflex)の一環として、迷走神経刺激による急激な徐脈と肺血管抵抗が生じます。
カメなどの肺動脈基部には強力な平滑筋が存在し、これが迷走神経からのアセチルコリン放出によって収縮すると、肺への血流が遮断されます。その結果、心室内圧のバランスが変化し、血液は抵抗の低い体循環(大動脈)へと逃げる〔Kristensen et al.2022〕。この生理学的背景こそが、アトロピンが爬虫類麻酔において特殊な役割を果たす理由です。アトロピンによるムスカリン受容体遮断は、単に心拍数を上げるだけでなく、この「肺血管抵抗の増大」を解除し、肺血流を維持する鍵となる可能性があります。
投与不確実意見
トカゲ類、特にグリーンイグアナにおいては、アトロピンの効果に対する懐疑的な見方が強いです。イグアナに対してアトロピン(0.2 mg/kg IV)やグリコピロレート(0.01 mg/kg IV)を投与しても、心拍数に統計学的有意な上昇が見られなかったと報告されています。この現象の背景には、 イグアナの心筋におけるムスカリン受容体の密度や親和性が低い,あるいはアトロピナーゼ様活性などが可能性としてあげられています〔Hernandez et al.2011〕。
種別ごとの詳細な検討と推奨プロトコル
包括的な文献レビューに基づき、主要な分類群ごとのアトロピン使用に関する知見と推奨事項を以下に整理しました。
カメ
推奨度: 条件付き推奨(中〜高)
吸入麻酔導入時のR-Lシャント抑制に極めて有効。特に潜水反応が強く、導入に時間がかかる水棲ガメ(アカミミガメ、スッポンなど)において、導入時間を短縮し、麻酔深度を安定させる。心拍数の維持により、組織灌流を保つ〔Bel et al.2024〕。研究レベルでは2mg/kgという高用量が使用されたが、臨床的には 0.01~0.04mg/kg (IM, IV) から開始し、効果不十分な場合に増量を検討するのが安全です。
トカゲ
推奨度: 低(特定の状況を除き非推奨)
グリーンイグアナでは心拍数上昇効果が乏しいですが〔Hernandez et al.2011〕、オオトカゲでは効果がある可能性もあるが、気道分泌物の粘稠化リスクがメリットを上回ることが多いです。徐脈の予防には、適切な体温管理、疼痛管理(オピオイドの適正使用)、そして必要に応じたカテコールアミン製剤の使用を優先します。
ヘビ
推奨度: 慎重投与(低〜中)
ヘビは左右の肺機能が不均等(左肺の退化)であり、かつ気管が長いため、分泌物による閉塞リスクが解剖学的に高いです。一方で消化管ホルモンや迷走神経による強力な循環制御が存在するため、アトロピンへの反応性は保たれています〔Enok et al.2012〕。使用場面は限られており、 口腔内手術などで過剰な流涎が術野を妨げる場合や、有機リン中毒時になります。
投与
麻酔時において、アトロピンのメリット(循環維持、シャント抑制)がデメリット(粘液閉塞)を上回るかを慎重に天秤にかけ、個別の麻酔プロトコルを構築する必要がありますが、一般的には優先して使用しません。原因不明の心停止、迷走神経性徐脈、オピオイド過剰投与時、あるいは有機リン中毒時投与を考慮するくらいです。
参考文献
- Bel LV et al.Comparison of Two Intravenous Propofol Doses after Jugular Administration for Short Non-Surgical Procedures in Red-Eared Sliders (Trachemys scripta elegans).Animals14(13):1847.2024
- Gise BT et al.Lizard anesthesia-a retrospective study of anesthetic protocol and monitoring quality of anesthetic episodes at a veterinary hospital over 23 years (2000-2023).J Am Vet Med Assoc263(7):904-913.2025
- Hernandez SM et al.Selected cardiopulmonary values and baroreceptor reflex in conscious green iguanas (Iguana iguana).Am J Vet Res72(11):1519-26.2011
- Kania BF et al.Analgesia/Anesthesia in Reptiles.World Journal of Veterinary Science6:42-51.2018
- Kristensen L et al.Effect of atropine and propofol on the minimum anaesthetic concentration of isoflurane in the freshwater turtle Trachemys scripta (yellow-bellied slider).Vet Anaesth Analg50(2):180-187.2023
- Kristensen L et al.The effect of atropine and propofol on the minimum anaesthetic concentration of isoflurane in the freshwater turtle Trachemys scripta scripta (yellow-bellied slider).Veterinary Anaesthesia and Analgesia 50.2022
- Enok S et al.HUMORAL REGULATION OF HEART RATE DURING DIGESTION IN PYTHONS (PYTHON MOLURUS AND PYTHON REGIUS).Am J Physiol Regul Integr Comp Physiol.2012
